烏賊下足屋台

ついったーに収まりきらないお気持ちぶち撒け広場

作者の気持ちを推し量るな


小学校の国語の時間、よく目にした問題だと思う。私はこれが大嫌いだったし、その問題を解いて得られるもの(というより問題を解いて身につく能力)が大方必要ないものであると思っている。何故ならこの問題を解いて身につく能力は、他人の顔色を窺って過ごすことに他ならないからだ。
一昔前、KYという言葉が流行った。空気(K)が読め(Y)ないというまんまの意味だが、これも私は嫌いだ。そもそも日本人はこの「空気を読む」という言葉を自分の都合のいいシチュエーションと解釈でしか用いらないからだ。

さて、ここまで一息に全否定してきたが、先に挙げた問題群を解く意味は、文章から書き手の意図やその作品を通じて伝えたいことを読み取ることだ。これは日常におけるコミュニケーションでも発揮される能力で、相手の言っていることを理解する能力に昇華するべき勉強だ。もっとも、それもできない輩もいるわけだが。
それを踏まえてもう一度言うが、私はこの勉強は最低限で良いと思っている。相手の話を理解する能力は必要だが、そこから相手の気持ちを推し量ることは無意味である。人の心なんて見えないし、移り変わるものだからだ。

そもそも作家は一字一句に意味を求めて文章を書いているのだろうか。そこを否定しては元も子もないかもしれないが、題材として挙げられた文章の作者が、意味を問う問題に対して「何も考えてませんでした!」と発言していたのも懐かしい。そう、実は何の意味もない詮索だったりするのだ。

話は少し変わるが、私は理系の人間だが現代国語と漢文が得意だった。そんなわけで意味を問う問題も多く見てきて正解を導き出すことも簡単だったわけだが、それで身に染みた顔色をうかがう能力は、私にとっていろいろなことの妨げになっていた。他人の目を気にせずにチャレンジするということがとても難しくなってしまったのだ。

この問題、先に挙げた理由のほかに、私が嫌う一番の理由はこうだ。この問題でテストの作成者が聞きたいのは、作者の気持ちを理解したかなどではない。「この文章のこの部分を読んで、私がこうであろうと思った作者の気持ちはなんでしょう」という、とても傲慢さの透けて見える(予想できる)ところなのだ。

世の学生諸君がこんな場末のブログなど見てようもないだろうが、もしこの記事が目に留まったなら、私はこう言いたい。

他人の気持ちを推し量るな。自分が感じたことを大切にしろ。


他人を気にして自己嫌悪に陥ったりして、何者にもなれなかった私からの言葉、なにかの役に立てば幸いです。