当たり前のように存在するものが、いつまでも存在するとは限らない。
よく昔から「いつまでもあると思うな親と金」というが、幸いなことにここ数年に至るまで別れを経験することはなかった。
だがそれは人とのことであり、場所との別れを経験したのは今からちょうど10年前のことである。
第二の実家とも呼べるゲームセンター「ジョイランド 天六」の閉店である。
昔話になるが、私は一人っ子ゆえに一人で完結する遊びに熱中した。
当時としては型落ちになるが、スーファミで遊び、ワンダースワンで遊び…。
唯一、対面に人間がいないとできなかったのが各種カードゲームだった。
相手のいるいないに関わらず、コレクションとして集めることが大好きだった。
ちなみにこれは今に至るまでの趣味と化すのだが、それは別の機会に語るとしよう。
中学に上がるか上がらないかという頃、近所のゲーセンに入った。
お世辞にも治安のよさそうに見えない場所だったが、何せ日本一の商店街の入り口付近にある店だ。
それが「ジョイランド 天六」
当時は店内で自由に煙草が吸えたが、そこまで煙たい印象はなかったように記憶している。いつも百円ローソンの後ろの道から民家の間を通り、裏口から入っていた。スターホースと狭苦しいトイレの間を通り、すぐに独特な正面階段から2階に上がった。
少年にはお金がなかった。
だからこそ、型落ちの安い中古ゲームを遊んでいたし、ゲーセンでも然りだった。
遊んでいたのは当時稼働末期に差し掛かっていた「ドラゴンクロニクル 天空大決戦」だ。
このゲームは磁気カードを使用したデータの保存に対応しており、タッチパネルの横にはカードの払い出しや書き換えをする場所があった。
よくできたゲームだった。ドラゴンを育て、技を覚え、最終的には全国のプレイヤーから3人がマッチングされバトルロイヤルを行うのだ。
カードを使うゲームは高かった。だが末期の「ドラクロ」はすべてのクレジットを100円にしてくれていた。
そこへ少年は週末、朝から足しげく通い、昼になったらはす向かいのマクドでチキンクリスプを買い、また夕方まで筐体へ向かった。
1プレイの間に育成→バトルと時間をかけられたので、すごくコスパよく遊んでいた。
バトル自体も奥が深く、敵が二人いるのでどちらに向くか、そのターンの行動を決める制限時間内に相手がこちらを向くのか…といった駆け引きは、
あのゲームでしか味わったことがない独特の読みあいだった。
後に聞いたことだが、「ドラクロ」全盛期は西日本の中でもかなり有数のメッカだったらしい。私がやっていたころにはもう私しか遊んでいなかったが。
そして時は流れ、高校時代、運命のゲームがリリースされる。
「Lord of Vermilion」だ。
モニターの下、テーブルのようなスクリーンで実際にカードを動かして遊ぶゲームだ。
ダークファンタジーのような世界観に謎の多い登場人物、そして何より美麗なイラストに彩られた「使い魔」と呼ばれるカードたち。
それらを駆使し、全国の見知らぬロードとしのぎを削る戦いをしていた。
もちろんこのゲームも我らがジョイランドで遊んでいた。
しかし前述の「ドラクロ」と違い、新進気鋭のゲームだ。当然割引もなく、300-200という料金だった。
ほどなくして200-200となったが、一介の高校生には難しい。頻度は限られたが、その分プレイに燃えた。単純に飢えていたのだろう。
今でも忘れないのは、私が「LoV」で初めて引きあてたSR(最高レア)は「ギガス」という使い魔で、あまりの弱さにネタにされていた。
わかる人には伝わると思うが、海種の「テティス」という使い魔を筆頭に据えた「1トップ海種韋駄天」というデッキを使っていた。
「韋駄天」の由来はゲーム内の称号であり、スピードの高い使い魔のみで組まれたデッキで全国対戦50勝だった。次称号まで取ったかどうか…。
何しろ、50勝という小さな区切りとはいえ当時の金銭状況からしたらよくやったと思う。
この後、「Lord of Vermilion2」「Sound Voltex」とハマることになるのだが、この時にはもう梅田(大阪駅周辺)によく行くようになっており、
ジョイランドタイトーにはなかなか行かなくなった。「LoV」少し後にハマった「スティールクロニクル」についても、別のゲーセンへ行っていた。もっとも、ジョイランドには置いていなかったと記憶しているが…。
実際そのころのジョイランドにはかつて少年が通っていたころの活気はなく、1階のクレーンゲームが増えたのもあり幾分明るくなっていた。
少年が主戦場としてた2階はガンダムと音ゲー、あとは麻雀といった、斜陽の色が酷なりつつある様だった。
梅田や日本橋に出向く機会が増え、自分のやるゲームが悉くなくなっていった場所は、当然足が遠のていった。
遍歴でいうと、このあたりで「ガンスリンガーストラトス」が出て、交友関係を広げていくことになる。一部は今でもつながりを保っている。とてもありがたい話だ。
しかしこのあたりも人生に多大なイベントが発生した時期でもあるため、またどこかの機会に書くとしよう。
思い返せば、ゲーセンへ一人で行き、一人で遊び、お金が無くなったらおいてあるコミュニティノートと「アルカディア」を読んでいた。
その後、友人とゲーセンに行くようになった。大勢で同じゲームをワイワイやる文化を覚えた。
遠征もするようになった。力試しというより、有名なゲーセンの人たちを見に行くような遠征だった。交友関係も一気に広がった。
ゲームはあまり上手くならなかったが、ゲームをしている人達がとても愉快で、一緒にいるだけで楽しかった。
そんな中、久々に立ち寄ったジョイランドに衝撃の張り紙を見た。
今でもその時の気持ちが思い出せる。「とうとう来てしまったか」と。
正直、もう長くないだろうという、漠然とした思いはあった。だがXデーが決まってしまった以上、できることは限られてくる。
それから、時間があれば入り、なくても近くを通ったら目の前まで行っていた。
そして10月15日その時。
最後の閉店を、当時親しかった友人と見送った。
そこには、おそらく私と同じような気持ちで見送る人の姿もあった。
私と友人は、人目をはばかることなく大泣きした。親しい友人を送ったような気持ちだった。
最後の時、通い始めてからずっといた店員さんと初めて言葉を交わした。
やはり、大型の直営店などに対抗できず、フランチャイズでもあったため経営はずっと苦しかったとのことだった。
万物にいずれ訪れる時。当時はやはりショックと喪失感が大きかったが、今振り返ると感謝の気持ちしかない。
あのゲーセンがなければ、さながらバタフライエフェクトのように、今の私はなかったかもしれない。
あるいは、ジョイランドがなくたって別のゲーセンで別のゲームをしていたかもしれない。
だけど、「ジョイランド 天六」で良かったと思う。
そう思えるほどに、あの時代の記憶は擦り切れそうになりがならも輝きを放っている。
ありがとうジョイランド天六。私は元気に東で暮らしています。